過去北朝鮮帰国運動を回想して見る (木下公勝)

過去北朝鮮帰国運動を回想して見る 

在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業が実現されたのは、今から約五十五年前の1959年12月14日の事であった。半世紀を超える、その頃を回想して見ると、もう昔話の事を思い浮かべるような感じがする。その頃から1984年までの24年間に約9万3千人の在日朝鮮人が帰国した。その中には日本人妻や、日本国籍を持った人々を数えると約六千人弱の人々が新潟港から清津港に向かって北朝鮮に渡って行った。その事を「在日朝鮮人の帰国事業」と呼んでいる。

 1945年8月15日、日本の敗戦当時、日本には200万人を超える在日朝鮮人が在留していたと知っている。

終戦前、朝鮮半島が36年間日本の植民地支配下で朝鮮人達は、社会的、経済的に内地の日本人よりはるかに、比べ物にならぬ程、貧困に襲われて、その生活苦から脱出する為、故郷を離れて主に釜山港から下関という航路を通じて流入した人達、又太平洋戦争と言う激戦中徴用、人力強制連行によって日本全国津々浦々の炭鉱、鉱山、飛行場建設、軍需工場等地で過酷な労働を強要された、朝鮮人、又はその二世、三世達であった。

端的な例を挙げれば、私の家族がそうであった。終戦当時は日本在留朝鮮人200万人の内、そのほとんどの人が北朝鮮の出身者より、南の韓国に故郷を持った人々だった。私の父母も韓国出身の在日朝鮮人であり私たちはその子孫である(二世子女)。

日本の終戦前、大阪の梅田と言う所で親戚の紹介で父と母は見合い結婚をした。その頃父は、岡山県のある軍需工場の地下道掘設労働に従事していた。母は初婚で6年後に夫と死別して、4歳と2歳の子供を持った後家さんであったと言う。母は2人の子供を連れて私の父さんと結婚しその後私たち兄弟5人を産み育てる事になった。戦時中、大阪に対して米軍の空爆が激しくなり、仕方なく親戚が住んでいた石川県に疎開するしかなかった。私達はそこで育ちそこで学校に通う事になった。終戦後、朝鮮人だけでなく、日本人も一般庶民は安定した仕事を確保されておらず貧しく厳しい生活をするしかなかったので在日朝鮮人はなおさら日本の暮らしが苦しかった。私が小学校や中学校に通うまでは勿論、帰国する瞬前まで仕事がなく職業安定所(現在のハローワーク)に行って、その日その日、日当の仕事場に配置され日当、時間当に割当する給料を貰って一家を支えていた。そのお金では兄弟五人の学用品を買うには足りなかったので、母さんは大型の荷車(リヤカー)を引っ張って、東西南北、漁村、農村、温泉地帯を巡回しながら、民家、商店からくず鉄(古鉄)、古着、古紙、空き瓶等を回収して、同じ朝鮮人であった古鉄屋さんに安い値段で売り渡して小遣銭を儲けていた。古物収集が全然なく空車で帰ってくる日が半分位だったと記憶している。

ここで一つ言及したい話がある。その頃の事がいまだに胸に刻まれている恥ずかしい出来事だった。

私が小学校6年生の時、学校から下校して近所の日本人の同級生と一緒に南郷町と言う街はずれの町の真ん中に流れている川に行って魚釣りをして薄暗い夕方になって帰る途中、橋の手前の坂道で一人の中年のおばさんが荷車を、引っ張って坂道を登ろうとしていたが、なかなか前に進む事が出来ず前進しているのか後進しているのか遠くから良く分からない程、困っている様に見えたので、私たち3人は走って行って後からリヤカーを「ヨイショ」「ヨイショ」と声を合わせて押してあげた。するとそのおばさんは、顔を半分位横に向けて「あ~ありがとさん、ありがとさん」とやや小さな声でお礼をした。私はその瞬間、荷の箱から手を離して学生帽子を眉毛のところまで下ろしてしまった。

私の母だと瞬間的に察知したからである「お母さん」と言う声が出なかった。ようやく傾斜のある坂道の頂点までに到達すると母は車を止めて帰ろうとする学生3人を呼び止めた。そして、モンペの腰のあたりから、巾着を取り出して、セロファンで巻いてあるアメ玉を分けてくれた。2人の友達はそれを受けていた時、私だけ一人逃げるようにして坂道を走って行ってしまった。母は夕暮れ時だった為、自分の息子を見分ける事が出来なかったのだ。私は坂道の下にあった、神社の大きな鳥居の柱の裏に身を隠した。友達2人は私の名前を呼びながら前を通って去ってしまった。私は即時に坂道を駆け登って橋の上でひと休みして座っている母の所へ行った。

「お前、トシオじゃないか?!どうしてここに来たんだ。そうか、さっき子供たちがトシオトシオと声を上げて探しているのを聞いたけど、同じ名前であってまさかお前とは思わなかったのに!お母さんの出迎えに来たんか?ありがとうね。偉い子だね。」と嬉しがっていた。

しかし私はその子供の頃、自分の母の姿があまりにも哀れで可哀想で気の毒に思われ自分知らず瞼から涙が溢れて仕方がなかった。私達子供を勉強させるため、こんなに苦労をさせられていたのかと思うと、自分が何故か一番の親不幸者に見えた真夏の七月、半袖のTシャツ一枚の背中には水を流したように汗でびっしょりだった。先程友達に分けて上げたアメ玉も道端に座って疲れた口に入れて疲労を一時癒す唯一のカロリー補充にしていたのに間違えないと思った時、心の中で「お母さん、ありがとう。本当にすいません!」と叫ぶしかなかった。下り坂の道を荷車で降りる時、私はいくら子供でも女である母よりましだと思って車の前に立ったが身体が宙に上がってしまって、どうする事も出来なかった。しかし、母は要領良く下り坂を右側左側にジグザク式に速度を下げながら下って行った。労働から身に付けた生活の知恵であった。当時まだ小学生の子供っぽい未熟な息子よりはるかに力があったと思う。そして母と知って瞬間的に帽子で自分の顔を隠した自身の苛責が少年時代の私の胸を強く叩いた。

当時在日朝鮮人達の父母はくず鉄や古着などを拾い収集して生計を維持していると日本の友達も良く知っていたので、自分の母もその様な部類で暮らしている事実が日本人の友達に暴露されるのがあまりにも羞恥な思いを感じたからであった。

本題から脱線して余談になるが、もう一つ追憶として述べたい事がある。中学校2年生の時、ある日の秋頃クラスで新沼君と言う一番お金持ちの息子が私のクラスにいた。ある日、生徒全員が新沼君の家の中の庭園の池に大きくキレイなヒ鯉であるマダラ模様の鯉、イスラエル鯉、赤、白、黒の色の混ざった大きな鯉が池にいるから全員、下校する時団体で見物に行こうと決めた。勿論、新沼本人の自慢話から出た招待であった。学生達は珍しい魚、羨ましい裕福な家庭、子供らしい好奇心でその家に行った。一人ずつ一列に並んで大きな家の正門に入る時、中門程で私が入ろうとすると新沼が私の前で両手を広げて私だけを家の中に入って来るなと止められた。私が「何で僕だけを入れてくれないのか?気分の悪いことをするな」と言った。すると彼は「うちのお母さんに朝鮮人だけは家に入れるな。朝鮮人は皆悪い奴ばかりだから家の中に入れるな、と言われたからだ。すまんが帰ってくれ」と言われた。

あまりにも突然な蔑視と差別に襲われて唖然に堕ちて頭の中が真っ白になってしまった。「朝鮮人がどうして悪いんだ。どこが悪いのか言って見ろ!この野郎、俺をバカ者扱いにするのか貴様!」私は自分知らず激憤してしまった。すると相手は「朝鮮人は皆、泥棒ばかりだし、汚いし、ニンニク臭く、下品な事ばかりするから、俺のお母さんに朝鮮人と友達になったり家に連れて来るなと言われたからだ。すまんが帰ってくれないか、仕方がないんだ」と今度は大きな声を張り上げて周りの人に聞けとばかりに叫んだ。

私は問答無用で相手の下腹を蹴った。そして相手が打撃を受けて中腰になった時、顔、胸を足で連打した。そして持っていた学生用カバンで顔中血まみれになる程殴り続けた。他の生徒達が私の暴力を阻止した。今度は側でケンカを止める生徒まで殴り始めた。しかし反抗せず家の中へ逃げて行った。その時私の怒り立った目に涙が流れていた。そしてトボトボ一人で泣きながら家に帰らず家の近くにある神社の大きな松の木の上に登って一番大きな太い枝の上に座って気分がおさまるまで木の上に座っていて夕暮れになって家に帰った。

翌朝、授業が始まる前、学校の教頭先生に呼び出されて、前日の出来事に対しての事情を質問された。私は一部始終を偽りなく正直に話した。

私の話を聞いた後の教頭先生の結論は、

「話が事実とすれば、朝鮮人を馬鹿にした発言はたしかに間違っていたと思う。しかし学生として相手に暴力を振って顔中に怪我をさせたのは絶対間違った行動だ。現在生徒の両親側から君に対して是非厳しい厳格な処罰を与える事と顔に一週間の傷を受けた件で登校も出来ぬ事になったので、病院に行って治療を受ける治療費と身体に対する損害賠償の申請が入って来た。君はどうすべきか決心を述べてくれないか?」と言われた。

「私は損害賠償や治療費を払う気もないし、そんなお金もありません。ケンカの火種を飛ばしたのは新沼であるので、私は謝る必要もないし、賠償を払う必要が無いと思います!」と反論を返した。すると教頭先生は、「君がそのように強情を張れば仕方なく警察署に通告して法的に解決するしかないがどうか深く考え直して決心してくれないか?」と半分脅し調で出て来たので「損害賠償問題は、お金の問題なので私の親に相談して欲しいと、私から一歩退いた。すると教頭先生は次の日に父親にこの問題で学校に来てくれる様にとの一通の通知書を渡してくれた。

その事情を知った私の両親は勿論、兄さんが激怒した。そのお蔭で私が兄から顔面にビンタをあびせられた。「そんな重大な出来事をどうして正直に言わなかったのか」と言うことであった。翌日口ベタの父さんより兄さんが父の代弁者として学校を訪ねて教頭先生と面談した。「在日朝鮮人が終戦後、安定した当り前の職業もなく知識や能力があっても会社、公務員の職から完全に排除されたので、仕方なく土木建築会社で日本人も嫌がる一番危険で重労働の部署しか雇用してくれないので私自身も土方になって働いている。子供達は日本で生まれ育ったので仕方なく日本の学校に行っている。昔から日本に来た朝鮮人は劣等民族として差別され蔑視され、迫害を受けて馬鹿者扱いされて来た事は教頭先生も良くご存知でしょう。私の弟が日本人の学生に暴力を振ったのは、何の為か良く分析して結論を下して欲しい。弟がただ普通の子供達の中で言い争いになってケンカをして先に手を出したのであれば私から親兄弟の立場から深く頭を下げてお詫びをします。しかしこの問題は、日本人が朝鮮人の天真爛漫な子供をバカにして差別し蔑視し子供の気持ちとして耐える事が出来ないくらい人間以外の屈辱を与えた為起きた出来事であります。もし教頭先生がこの場で私にその様な一番聞き辛い屈辱的な言動を投げたとしたら、先生を血ダルマにして撲殺していると思います。過去36年間、日本は朝鮮を植民地にして朝鮮人に与えた苦痛を反省せず今だに子供にまで「朝鮮人は家に入れるな、朝鮮は皆泥棒であり、下品な人間であると言う悪口を自分の子供に教育したその親に言いたい事があるから是非会わせて欲しい。朝鮮人は職も無く生活苦のため、生きて行くため、泥棒をしたり、強盗をしたり、闇焼酎を作ったり、古鉄やゴミ拾いまでして生きる方法がないからです。これは民族が悪いのではなく、社会悪のため、生存の為犯した非法行為です。教頭先生は教育者の立場からこの問題を第三者として客観的に分析して結論を下してください。」と憤怒を抑えて熱弁を吐いたと言う。

すると教頭先生は「あなたのお話は間違っていないと思います。良く分かりました。この問題を学校側と学生側の家庭と良く話しあって解決します。ですから個別的に相手の新沼家に乗り込んで行って再び騒動を起こさない様にして下さい。」と和解しながら騒動を起こさないようにと釘打ちの注意を与えるしかなかったと言う。

以上この「騒動」はここで一段落を下した。

私が何故ここで長々旬旬、余談を述べたか分かってもらいたい。当時在日朝鮮人が日本全国津々浦々でこのような、民族的な差別と偏見蔑視の中で精神的、肉体的な苦痛で苦しんでいた頃、在日朝鮮総連が「北朝鮮帰国問題」を持ち上げて広く宣伝カンパニアを展開した。「地上の楽園」とか「資本主義社会より自由で平等な国、民族的差別のない社会主義社会である北朝鮮は世界一番暮らし良い国」と飴のように甘く胡麻油のように香ばしい政治宣伝は在日朝鮮人に熱烈な支持賛同を受け、先を競って帰国志願者名簿に明記をしたからである。

総連の宣伝は「敵期適作」として見事に成功した。例えて言えば、干ばつで枯れ果てた農作物に突然ありがたき大雨が降り、その雨が一瞬に大地に浸み込んでしまった様な事と言える。その大雨とは総連の宣伝だったと言いたいばかりである金日成と韓徳洙のデタラメの宣伝が在日朝鮮人の心を熱狂させ見事的中したと言る。

だからわずか数年の間に9万3千人の朝鮮人やその配偶者日本人妻達が北朝鮮に永久帰国してしまった事になった。この帰国事業こそ騙された誘拐事件であり、在日朝鮮人の悲劇はここから又始まったのである。帰国事業は1959年から84年までとされているが、1960年から67年までがピークに達していた時期で、その頃にすでに9万人近い人々が帰国しその時から84年まではわずか数百人あるいは数十人しか帰国していなかった。ここで私が再度言及したい事は、日本に住んでいた在日朝鮮人が現在の日本のように裕福な社会であて現在の様に露骨的な民族的差別と偏見が無く普通の日本人並みの生活をしていたなら、それ程まで多くの人々が北朝鮮に行っていなかったと思うし、現在の様に発展を成し遂げた韓国であったならなおさらそうであると思う。

在日朝鮮人が帰国して総連の宣伝通りの半分、いや3分の1でもなく、十分の一位でも当っていたなら、あの様な悲劇や事故がなかったろうし、1日三度のメシも食べる事が出来ず飢えて死んだりはしなかったのにと思う。

当時帰国した人数は約9万3千人と言っているが、日本に住んでいたその帰国者の家族、親戚、兄弟全部、北朝鮮の帰国者と縁故関係になって、悲しみ、後悔、心配、疑惑、そして数年に渡っての継続的な物資の仕送り、送金、その負担も普通ではなかった。しかしその様な経済的な側面よりも耐え辛い疑惑と悲劇の連出である。それは、日本から帰国した後、突然音信不通、行方不明、そして個別的、家族、集団的な政治犯収容所に連行され、処刑されたり消息不明になってしまった帰国者又はその家族は、私の信頼性のある噂では約2割から3割に達していると思う。その様な人権蹂躙、非人道的な措置に対して総連側は過去も現在も一言半旬も言及していないし解明しようとしていないまったく無責任な組織である。

帰国した9万3千人だけ苦痛と悲劇に嘆いているのではなく、先ほど言った通り日本に住んでいるその家族兄弟親類達に与えた、与えた悲しみと疑惑、そして精神的苦痛は計りしれないし、そのような悲劇に巻き込まれた縁故者は全部数十万人に達すると思う。勿論私の家族も同様である。

そればかりか帰国事業は、数多くの離散家族を続出した結果となった。普通離散家族問題は朝鮮半島の北と南の家族親戚の分断の結果産出された離散家族だけを念頭にしているが、事実1960年代以後の離散家族問題は、当時の帰国事業からも産出された事を分かってもらいたい。

北朝鮮と日本その離散家族、そして北に行った日本人と日本に居る日本人との離散家族がそうである。帰国した9万3千人と日本に居るその親子、親戚兄弟との再会問題も切実な問題だと私は思う。そして拉致問題、現在生き残っている日本人妻達の生存確認と生活処遇問題、日本人遺骨問題、北朝鮮政府が主張する過去植民地時代の賠償と清算問題、他の国と違って北朝鮮と日本の政府の間では、あまりにも多くの難問題が残っている。勿論国交正常化問題もその中にある。そして帰国運動を率先推進させた総連も責任を負うべきであるが、それを後押しした日本政府、当時の日本総理大臣そして知識人やマスコミにも連帯責任があると思う。現在帰国者の悲惨な生活状況と多くの餓死者まで実在している事に対して日本政府側ももう少し関心を回して欲しいばかりである。

拉致問題ばかりでなく現在生き残っている日本人達を一日も早く救出して欲しい事が切実であると思っている。

北朝鮮の人権問題、困窮な生活状況、飢餓状況、核武器、ミサイル開発の不当性に関しては、私が言及しなくても全世界、日本中が全部熟知しているので述べたくはない。過去の事よりこれから私を始め日本に居る脱北非難民、そして日本政府、日本の守る会救う会を始め多くの民間、NGO団体が努力と心を合わせて、まず可能性のある問題から優先的に北朝鮮問題を行動で解決する為に、努力するべきだと思う。何をどうすべきか方針的な問題、その解決策を模索して行く事だと思う。

述べたい話は、山ほどあるが最後に帰国事業に対してもう一言言及したい点がある。先月3月9日、守る会結成20周年記念講演と帰国事業に関する写真展示会が行われた時、当時新潟県帰国協力会事務局長として従事されていた小島晴則先生が記念講演された事である。私は事前にその方が執筆された『幻の祖国に旅だった人々』を探読して参加し、誰よりも小島先生の講演を一番注意深く聴いていた。何故かと言えば、その本を読んで内容に対していくつかの矛盾点と不愉快な点を感じたからである。それは数回に渡って訪朝し数週間も滞在していて、その後も帰国事業を総連と協調していた事である。私達帰国者は、北朝鮮の地を踏んだ途端から一瞬に宣伝とまったく丸反対の光景、人々は薄黒く痩せこけた容姿を見て騙されたと察知してしまった。他の帰国者も皆異口同声である。しかし、小島さんは、2、3回も訪朝して数週間もピョンヤンを始めその周辺を見たり、人々の姿、幹部達の言動を見て何か肌で感じていたにもかかわらず、その後も総連幹部と一緒に帰国事業に熱を挙げていた事に対し大変遺憾を感じたからである。

北朝鮮に一度も行っていなかったとしたら話は別である。これは、深刻な話で言えば朝鮮総連との共謀者であった言っても過言でないと思う。北に行って宣伝と違って何らの違和感も感じていなかったか不思議である。ストレートに言えば北の実況を知っていながら、より多くの在日朝鮮人を北に送還するため、熱を上げていた行為的で悪質な共謀者であったと思うしかない。

しかし、半世紀昔の話であるので、本の内容や講演で少々の本人として過去に対し反省の言葉、自身の自己批判、そして朝鮮総連の帰国事業の罪状、虚偽宣伝に対して一言半句も言及がなかった事、在日朝鮮人の帰国事業とは一体何であったか?と言う辛辣な分析が一言もなく済ましてしまった事である。

そして過去「2002年日本鹿児島県の沖で北朝鮮の工作船が撃沈され一般公開され見学した際

・・・私は工作船の死者達の母に代って花を捧げた。

・・・拉致された、子母たちは死ぬに死ねない、その双方の悲しみを忌まわないと再び工作船と同じ悲劇が起こる。だから私はユリの花を捧げさせてもらったのである。」

・・・命をかけての「脱北者」は今も急増、新潟港から帰国した帰国者がポトナム並木に触れた時、何よりも心なごむ事が出来ますように、しっかり守り育てて頂きたいのです。」

以上小島さんの言葉です。

第一、もし北の工作船で鹿児島付近で又も日本人が拉致されたら、その遺家族の悲しみはどうであったろうか考えて欲しかったと思う。爆沈されて工作員が死亡したのは、幸いであり、大成果だと思う。

その工作員の戦士にユリの花束を捧げて悲しんでいた小島さんの心境が理解出来なかった。

第二、過去朝鮮総連は日本人と同調しており多くの人々を帰国させ、それを記念する為、新潟県に柳通り(ポトナム通り)を考案したものである。そのポトナムを見て、帰国者である現在の北脱者がそれを見て、感激に溢れて小島さんが願うように「しっかりと守り育てて頂きたいのです。」と共感を抱くだろうか?

その木で言えば、虚偽宣伝で実行された「帰国事業」のシンボルとなっている柳の木なのに、我々帰国事業の「犠牲者」がその柳の木を立派に育て守るべきであるか、深く考えて欲しい。私としては、その木を鋸で切り倒してしまいたいばかりである。

小島さんの言動は、過去帰国事業に対して訪朝して朝鮮総連と手を取り合って過ちを犯した事に対し良心的呵責を感じていないように見えた。本当に過去の過ちを反省するのであれば、拉致問題、救う会に力を注ぐ事より自分が帰国事業に協力貢献した事を反省して、現在北にいる帰国者や日本人を救う運動に専念して欲しいと思う。余生に注ぐ仕事はただそれだけだと思う。

以上

木下 公勝

 

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