映画「ムサン日記 白い犬」を観て

映画「ムサン日記 白い犬」を観た。これは、この世に生きている人間たちは本当は皆同じく平等なはずなのに、生まれ故郷、生活環境、家庭、学校、社会での生活次元によって、人間の品格や性格、判断力が決定されてしまうという残酷な事実を描いた映画だった。

北朝鮮という世界中での特殊な独裁国家、そして外国との自由な交流、接触が全く閉鎖された社会、貧困と飢餓の中で苦しんできて、ただ一日一日の日々を生きていくために、食べ物を求めるだけという原始的、動物的な思考方式で生きてきた脱北者が、韓国という発展した自由主義、資本主義の国の制度や人々と全く適応できない姿が哀れだった。同じ民族同士でも、生まれたときからの社会制度の違いがあまりにも広いため、脱出者は韓国社会からも疎外され、蔑視される。映画の主人公は、街中に広告を貼ったり、カラオケでアルバイトなどするが、当たり前の報酬ももらえず、侮辱を受け、時には暴力のターゲットにすらなる。

この映画の主人公、スンチョルは、苦しい生活の中でも捨てられていた犬を拾ってきて、必死になって飼い、守ろうとする。この映画の中で最も人間愛を感じさせる場面だ。しかし、この美しい心を持っていても、北朝鮮から来たというだけで、差別され、ただ弱弱しくすべてを受け入れ、差別に反抗する力もなく、ただ無抵抗のまま生きていくだけの人間として描かれる。これは、北朝鮮で生まれたときから、首領様絶対主義、宗教的な専制支配、無条件の服従を強制する思想教育のなか生きてきた脱北者の後遺症だと思う。このように、韓国で脱北者が社会に適応することは双方の側にとって難しいことだ。これは住宅支援や定着金等物質的な支援では解決できない、精神的、意識的な問題がハードルになっている。

ただ、私は、この映画の表現は少し誇張が過ぎるとも考えた。はたしてここまで、韓国の脱北者は本当に差別されているのだろうか。実際、韓国政府はハナ院にて脱北者を数か月社会に出るための訓練をし、一定の定着金を与え、社会への最低限の適応訓練や初歩的な職業教育をしている。どうしてこれほどまでに、この主人公が苦しい生活を送っているのかは少し理解しがたい点が映画にはあまりにも多いし、脱北者の精神にも、忍従と独裁の国から自由な国に来たことで、もっと様々な意識の変化があるはずなのに、そこはほとんど描かれない。正直脱北者の私には、監督の意図や、映画そのものの完成度には不満を感じたのも確かだ。何よりもこの映画を観た人たちが、脱北者はすべて社会に適応できないのだと思われるのは困るし、北朝鮮でも韓国でも脱北者は同じように生きていけないというのでは、映画を観る人にはどのような印象を受けるだろうか。

どんなに苦しくとも、たとえある程度の差別を受けたとしても、それは北朝鮮での暮らしに比べれば、少なくとも自由にしゃべっても逮捕されない、政府の悪口を言っても収容所には入れられないというだけでもはるかにましなはずだ。どんな社会で生きていくうえでも差別も疎外もある。しかし、題名の「ムサン日記」にある、北朝鮮のムサンでの生活に比べれば、はるかに自由も人権も保障されている脱北者の意識を、ただこのように無力なもの、自由の意味が分からないものとして描かれたのは少し不満だった。

そして、何よりも、この日本では200人ほどの脱北者が生活している。日本での脱北者の現状と、そして可能性について、日本でももっとすぐれた映画がつくられてほしいと思った(木下)

ムサン日記 白い犬 公式ホームページ

http://musan-nikki.com/

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