1959年12月在日朝鮮人を乗せた帰国船が新潟港を出発してから現在に居るまで早くも53年の歳月が流れた。その在日朝鮮人帰国者の中にその配偶者にあたる約7000千人に近い日本人妻が含まれていた。私達家族が帰国船に乗る為新潟日赤センタで数日間滞在している時も何世帯の日本人妻家族に出会った事もあったがその当時まだ十代の若い年頃だったので、日本人妻でありながらなぜ北朝鮮に行かなければならないのかと言うような深刻な考えは全然なかった。しかし北に行って自身に対して周りにいた日本人妻の哀れな処遇に対して深く考えて見る事がよくあった。
北朝鮮に行って5ケ月位過ぎたある日、部屋の中に卦けてあったスピーカーから「次は日本から母なる祖国に帰国された、功勲俳優金永吉さんの愛唱歌「母なる党よ」を、続いてイタリア民謡「オ、ソレミオ」「帰えれソレントへ」をお聴き下さい」と言う朝鮮中央放送局の男性アナウンサの紹介があった。私はその時在日帰国者の金永吉(キムヨンギル)と聞いて瞬間的にはっと驚いた。何故かと言えば私が帰国する一年前私が住んでいた大きな劇場で永田絃次郎と言う名前でその方の公演を直接観た覚えがあったからである。
ここから余談になって話が52年前に逆のぼる事にする。1960年1月の中旬頃だと記憶している。当時私の父親の独断的な決心で家族全員帰国する事になっていたので帰国前に朝鮮語(母国語)教習の為朝鮮総連本部の指示で各支部傘下の同胞学生、青年達に母国語を教える学習班が組織されていた。街の片隅にある8帖位しかないちっぽけな木造の建物小屋であった。看板に、「○○○○○朝鮮人学校」と書いてあった。夕方7時から10時まで街で朝鮮語に精通した中年の男性の先生や、朝鮮大学在学中の学生が地方に下りて来て朝鮮語を教えたり、「金日成将軍の歌」を教えたり朝鮮の伝統的な民謡を教えたりしていた。そればかりでなく毎週一回駅に行って、当時北に帰る特別編成された、「在日帰国者、特別列車を歓送する事も組織的に行われていた。
ある日、先生が明日、夜7時から○○○劇場に行って在日朝鮮人歌手、金永吉氏の実況公演を観覧に行くから夕方6時半までに集結する事」と通知し観覧料金は総連支部が負担するから全員参加する事と言い、金永吉氏に関しての簡単な経歴と活動業績に対して言及してくれた。私は当時日本の流行歌歌手や映画俳優の有名な人達の名前は知っていたが、朝鮮歌手永田絃次郎氏の名前は全然聞いた事がなかったので在日朝鮮人の中でクラッシック音楽界歌劇分野での歌手が居たとはまったく知らなかった。金永吉氏の事を熱弁を吐きながら誇らしげに説明をしてくれた先生は当時私の所ではめずらしい北朝鮮ピョンヤン出身の訴川先生だった。彼は金永吉さんも私の住んでいたピョンヤンから近いジュンフア郡出身だと自分の事の様に自慢していた事が、今だに目に浮かぶ‥‥
私は観覧席で座る時舞台下にあるオーケストラーのすぐ手前の所で観覧したので金永吉氏の全面貌を今でもはっきり覚えている。
舞台に出て来た金永吉氏は黒い燕尾服に痩せた体型ですらっとした姿だった眼鏡を卦けた細長い顔が目に浮かぶ。
しかし朝鮮でありながらマイクの前で最初の挨拶の言葉は立派な日本語だった。
音声は軽く澄みきってはずむ様な声だった。
年頃は四十代の後半頃に見えた。劇場の一階、二階、満席でその中で30%位朝鮮人だったように見えた。管弦楽団は皆日本人だと本人が説明してくれた。(約二十人位)今だに印象深く残っている曲は「オ・シレミオ」「帰れソレントへ」「荒城の月」「叱られて」である。それは私自身が前から良く聴いていた名曲であった為であろうと思う。
公演は一部と二部になっていて金永吉さんが一部の休息の時間に在日朝鮮人の民俗芸術が紹介された。「農楽舞」と言って民族衣装に頭の円い帽子に付いている長いテープを首を回しながらくるくると円を描いて回す舞踊、女性達の群舞独唱、合唱などが披露され次に第2部が始まる様になっていた。今考えて見るとそれも皆、朝鮮総連が組織した公演だったと思う。当時の永田さんの挨拶や公演の後お別れの言葉は全部記憶していないが、この言葉だけははっきり覚えている。
「数日後私は日本を離れて母なる祖国朝鮮民主主義人民共和国に帰る事を決心した。しかしお国へ帰っても有りがたき日本の皆様の事は絶対忘れる事は出来ない。‥‥向こうに行っても私の大望であり人生である歌手生活を継続し日本と北朝鮮の親善と平和を築く橋となり虹になりたい。その偉業を音楽を通じて必ず成しととげたい。日本の皆さま元気でサヨナラ」
彼の目鏡の下から熱い涙が流れていた。私も何故か胸がジンとなった。本当に名残り惜しい心情で別れの挨拶をとげていた。本当に北朝鮮に行きたくてその様な決心をしたのか?それとも朝鮮総連の執坳な勧告と圧迫そして捏造された宣伝から避ける事が出来ず北に行ったのか私自身良く知らないしかし愛する日本妻である金永吉さんの家庭がどうして日本での芸術活動を諦めて北朝鮮に行ったのかその深い真相は私として良く理解できない。おそらく宣伝に騙されて誘引された事だと思うしかない。
それはわたしが北朝鮮で「在日同胞テナー歌手金永吉」「金日成首相がもっとも寵愛し信頼していた功勲俳優金永吉」と言う名前や宣伝が3年後にプツッと消えてしまった。私が日本に来る前まで聞いた事がなかった。私の推測ではおそらく1964年度頃にはすでに社会から完全に埋葬されていたと思う。1962年から63年まで彼の音楽がスピーカーに流れ映画の主題歌にも載せられていたし「朝鮮画報」という雑誌に「帰国後幸福な生活を営んでいる在日同胞帰国者、金永吉音楽家家族」となって夫妻、娘達、息子一人の写真がデカデカと載せてあった。
しかしその一年後突然闇に消されていた。「反動分子」「国際スパイ」「民族反逆者」と言う噂もなかった。1962年頃私は映画館で「大同江のほとりで」を観た時、監督や俳優、シナリオ作家撮影家の名前が画面に流れる時主題歌、歌手金永吉と載っている映画も観た事がある。北朝鮮が戦争で破壊された首都ピョンヤンの復旧建設事が盛んに行われていた頃、ある工事現場で若い青春男女が恋愛関係となり、祖国建設のために自分達の愛も友情も皆捧げる事が、朝鮮青年として最大の使命であると言う事を描いた簡単な内容であった。
又その主題歌の歌詞とは要旨次の様である
「緑深く茂ったモランボン遊歩道
愛する貴方と肩を並べて歩いた
想いでの道、五角の星が輝く青い空
解放塔を抑ぎ歩みを止める
解放塔を抑ぎ愛を誓う」
と言う歌詞であった。
解放塔とは、1945年日本軍を攻めて平壌まで進撃して来た当時ソヴィエト共産軍がピョンヤン郊外市外戦で日本軍によって犠牲者となった。ソ連軍の慰霊塔の事であり五角の星とは、細長い慰霊塔の一番上に立てられた、ソ連軍の軍旗の印である五角型の星の事を意味している。
しかしその後、その映画と主題歌の歌詞が問題視され映画上映禁止となった。
朝鮮を解放したのは金日成元師であってソ連軍でないと言う事、又その解放塔を歌にすると言う事が金日成のお気に召さなかったのであった。当時までは金正日がまだ大学生時代頃だったので60年代までは映画や歌と言う芸術部門に金正日時代の様に厳しい統制と検閲がなかった為、しばしば労働党や金日成の意図に合わない芸術が製作されていた。
「朝鮮解放の愛国者は金日成将軍であり、朝鮮戦争の勃発した張本人は韓国軍とアメリカ軍である。」この北朝鮮の主張こそ金日成時代に捏造された最大の歴史歪曲捏造劇だったと思う。そして1959年度の在日朝鮮人の帰国事、これこそ金日成、韓徳洙二人の極大型捏造誘拐事件だったと思う。
テナー歌手金永吉氏は、映画のテーマソングも本人の独唱会、そして革命的なテーマを主題とする歌劇等も皆本人が日本に居る時愛唱していた。世界的に有名なクラシック音楽を希望通り歌う事は極度に制限禁止され金日成偶像化を主題にした歌曲や革命歌、党を誉めたたえる指定曲を歌うように強要されていた事は確実な事実であった。私が北で聴いた金永吉氏の歌の95%程度が全部北朝鮮が地上楽園、その国を正しく領導して下さっている金日成と党の卓越な革命業績でありました。と言う様な内容の歌ばかりであった。
当時、祖国への帰国を断行して日本から大きな抱負と希望を胸一杯抱いて愛する妻や子供達を連れて祖国朝鮮に帰って立派な歌手となり、それと同時に日朝友好の橋や虹になるが為に全身全霊を捧げる決心を抱えて北に行った事だろうと思う。
しかし、北での現実はまったく180度正反対であり夢はバラバラに砕かれた哀れな身となり結局3年後には、共産党主義社会から完全に埋葬されてしまった。
その理由は日本人妻、北川民子さんの問題が金永吉家族に致命的な影響を及ぼしたのだろうと思う。私が1974年頃、黄海南道海州市に行った時、海州市芙蓉洞に住んでいたある帰国者の人があれこれ昔話の途中十年位前帰国者功勲俳優金永吉がピョンヤンから追放されて自分の近所で暮らしていて海州市に住んでいた他の帰国者と一緒にピョンヤンへ行って北朝鮮当局の帰国者に対する不当な差別政策と自分達の日本人妻を日本に帰国させるか里帰りさせるか、深い配慮を要望する帰国者グループ(妻は皆日本人妻の人達)連合の嘆願書を持って金日成首相(当時は首相)を訪ねていったがピョンヤンで集団逮捕されたと言った。他の人はどうなったか知らないが金永吉は功勲俳優資格をすでに剝奪され平城(ピョンヤン)に家族と共に再度追放されたと聞いた事があった。その後から現在まで彼の行方や消息は全然耳にした事がなかった。
日本に来て最近になって永田絃次郎氏のCDを聴く事が出来た。在日朝鮮人帰国事業が始まって数年間、金永吉氏だけでなく多くの有能な芸術家、スポーツの選手、科学分野での技術者、学者、教授達が自由民主国家から共産主義をスローガンに立てた独裁国家に行ってイドオロギーの犠牲者となって次々と闇の中へ消されていった。その数は家族まで含めて万単位を超えると推定しても誤算ではない。
私はこの機に再度過去帰国事業に関して、今や五十年以上前の昔話のように深く回想して見る事がある。金日成韓徳洙と言った。執権欲と政治的野望を持ったわずか一人、二人の人間の為数十万の罪なき善良な人々が北朝鮮に行って反動分子、国際スパイ、民族反逆者、危険人物、動揺分子等の濡れ衣をかぶせられて強制収容所に圧送されたり社会から埋蔵されたり、山間僻地に追放、炭鉱、鉱山へ追放されそれ以外の帰国者達は保衛部や保安員から常時的に監視され思想動向をチェックされている。
私は一日も早く帰国事業の下囚人であり当事者である在日朝鮮の謝罪と賠償を追求、実現させたい。そして現在まで北朝鮮に居る日本人妻を一日も早く自分の故国に帰って来る日を切実に念願する次第である。
木下公勝