「帰国船」(鄭箕海著 文春文庫)を読みつつ北朝鮮での生活を思う

関東脱北者交流会  木下公勝

私達在日脱北者や韓国にいる在日脱北者として帰国事業とは今から回想して見ると随分昔の話に思える。「地上楽園」と言ってだまされて北送された在日朝鮮人や日本人妻を含めて約9万3千人余りの各階各層の人々が現在どの様な生活をしているのか、真実の実態を知っている人はあまりいないと思う。

ただ北朝鮮、独裁国、テロ国家、拉致国家、食糧不足で住民達が飢餓状態の中で苦しんでいる、という程度位は常識的に知っているだけである。

しかしこの本「帰国船」(文春文庫)を書いた著者、鄭箕海(チョンギヘ)さんや私の様に同じ脱北者としては、非常に胸痛い追憶に残り、その言葉一つ一つが目の生々しく甦るものである。

帰国船(文春文庫)

私は去年も帰国事業に対しての感想文を書いてみた覚えがあるので、今回は、鄭さんのように

①    炭砿地帯での生活実態

②    炭砿地帯に重に配置された日本人妻達の生活実態と彼女達の未路について感想を述べようと思う。

著者は18歳の時、1960年6月第27次帰国船で北へ行ったと言う。そして平安北道 定州の炭砿町に配置された。この様なケースは私と良く似ていた点が多い。

私も1960年北朝鮮に渡り、北方の炭砿に配置された。私は専門学校を卒業して22年間炭砿で従事し、その内初期3年間は坑内入って、採炭やベルトコンベア運転工をやり、その後、坑内から出て、公務動力課で旋盤工、フライス盤 ボーリグ工として20年近く働いていたので、著者の当時の生活実態を良く理解できた。

特に印象深い話は北朝鮮では全国の炭鉱が皆、軍隊の様に大隊、中隊、小隊と言う軍隊人式に編成されている。

あらゆる事業、行政機構が皆、軍隊式であり絶対復従の命令式に構成されている。幹部や行政員全部、軍隊の様に制服を着用させ両襟(えり)には下士官には(一般労働者)黄色の階級章になる筋1,2,3と区別され、小隊長からは(将校)小星、中隊長は三つ、大隊長(坑長)は中星、3個を付けて勤務していた。配給は坑内の炭夫は1日900g、坑内労働者は700gになっていた。

しかし1980年代の半ば頃は900gが700gに700gが500gに削られた。

そして経済事情の為に制服の供給も、切られた事情だった。

著者がいた定州付近の龍豋(ヨンドン)炭砿のように一般的に炭鉱には、出身成分の良くない家族がおよそ6割ほどいたと思う。彼らは、昔の地主の子孫達、越南者家族、ピョンヤンや元山などで政府ににらまれ、革命化の再教育をさせられた人びと、そして特に朝鮮戦争の時、韓国から人民軍隊に入隊して闘った親北青年達だった義勇軍出身の人達、韓国軍として捕虜になって戦後炭鉱に強制配置された人達だった。

又私が北朝鮮のどこにいっても、日本人妻が炭鉱や協同農場に多く配置されていた。両江道の恵山(ヘサン)や咸鏡北道の戊山や(ムサン) 鏡城(ギョンソン)がその代表的な地域である。

私が住んでいた炭砿街にも14名の日本人妻がここに配置されて住んでいた。ある日本人妻は炭鉱の坑内の石炭をベルトコンベアで石炭運搬用の借物列車まで運送するコンベア運転工として働いていた。女性が2名いたし、それ以外の妻達は、近隣の協同農場に行って日本ではやったこともない作業に従事して家計を支えていた。(ほとんど、主人は早くなくなり、一人で子供を育てていた女性が多かった)

私達のいたところでは、ある日本人女性(本名は秘す)が、年の差が20もある朴勝道(パクスンド)と言う朝鮮人の夫と頻繁に口喧嘩をし、時には暴力を受けながら、3人の子供を育てて暮らしていた。子供たちが大きくなるにつれて食いさかりの年になり生活は極貧状態になり他の帰国者達より貧しい中でももっと貧しい飢餓状態で暮らしていた。この家族はすでに1970年代頃から、1日三度の食事をする日もほとんどなく、子供達は職場や学校にもまともに通う事も出来なかった。

日本から何人の仕送りもなく、家の主人は、家のお金を、全部博打や酒代に使い果たしていた。毎日のような暴力と貧窮、食糧不足、一家栄養不足で苦悩の連続だった。とうとう妻は我慢しきれず、他の男と不倫関係になってしまい、若い帰国者の男性と脱北を決行したが、豆満江を渡江中、深みにはまって男性は渡ったが女性は溺死した。一ヶ月後、女性の死体が豆満江の下流水域になる穏城(オンソン)で、見分けのつかぬ程の変死体となって発見された。女性の衣服に、日本製と記入されていたため、帰国者か日本人妻だろうということで調べられ、私の炭鉱に連絡が来た。そして、トラックに乗って帰国者5人、炭鉱の行政部の人2人、計7人で死体の受け取りに行った。その時、私がその5人中の一人として同行した。

また、鄭氏が指摘するように、北朝鮮では、配給が停止する九〇年代までは、食糧統制を一つの手段として労働者を作業に動員させてきた。配給制度で労働者を統制、支配している国は、おそらく北朝鮮しか無いだろう。もしも理由があっても、労働者は欠勤するとその日の食糧配給は消されてしまう。十日なら十日分、1ヶ月なら1ヶ月分、1ヶ月以上なると本人だけでなく家族全体が無給になってしまう。これは外国の方には理解できないだろう。

1960年代初期から北朝鮮では炭鉱、鉱山、漁村など、毎年26万人位の除隊軍人を重労働分野に強制的に配置した。勿論金日成の指示であり命令であった。この教示、訓示に不復従、不順応な個別的な行動をした場合、除隊軍人は逮捕、処罰を受けることになっている。つらい労役にたえきれず欠勤すると、食糧供給が中断され、口に入れる物が無くなるので、仕方なく無理して出勤する。いわば昔、古代、中世の奴隷同様であり喋るロボットの様な人間になってしまう。

金日成、金正日親子が、いくら箇吹き太鼓を叩いても、労働者が踊ってくれず生産高が上がらないので、1970年代の初期金正日が創案したのが、〈三大革命小組〉を全国各地に派遣することだった。全部各大学の卒業生で〈小組〉と言う意味は、〈グループ〉と訳すと分かりやすいが、この任務期間は3年間だった。

私は1970年度当然、二十代の若い頃、炭鉱の機械工場で旋盤工として働いていた時に、配置された〈三大革命小組〉員達と出会い、仲良しになって(3年間)私の家に遊びに来たりしていた。ピョンヤンの師範大学の卒業生だったが、彼らはすごい権限を持っていた。

各工場で、企業所の支配人、党委員の党密書等を幹部に登用させたり、逆に首を切る(解任)事も出来る、ありがたくもあり恐ろしくもある存在だった。ただ、個人的には私は彼らの印象はそれほど悪くはない。彼等は、私を朝鮮労働党に入党させてあげるから、坑内採炭、掘進と呼ばれる、重労働部門で約六ヶ月鍛錬して来い、そうすると入党の資格を得る事が出来ると私に言うので、私はそのとおりにした。この炭鉱は日帝時代の1930年代、日本人の岩村と言う人が開発した炭鉱で、すでに近500mまで坑道が延びていた。高熱の為に汗だくになって一生懸命働いた。北では党員と非常員との社会的待遇が全く違っていた。党員でないと幹部にもなれず子供達は大学にも行けず、前途が制限されて一生涯重労働しか外に道はなかった。私は帰国者という不利な立場から脱出するためになんとしても党員になりたかったのだ。そして、六ヶ月後、入党審査に合格することができた。

入党審査とは、〈党の唯一思想体系確立の為の十大原則〉全部24ページを学習し(一ヶ月間)又それを暗記、暗唱し、さらに十数人の党の幹部連の前に立って、質問に答える様になっていた。失格すれば又一年間、保留され再学習、再鍛錬する事になっていた。当時20代の青年時代だったので、記憶力も悪くなかったので合格できたのだろう。ただいつも頭の中は〈人間らしい待遇〉の中で生きたいと言う観念が頭を支配していた。

その2ヶ月後、清津(チョンジン)共産大学に入学、2年間の短期、短科大学だった。専攻科目は勿論、政治、思想、社会主義、経済学、弁証法的唯物論、唯物論哲学、有神論批判など、その中で重大科目は〈金日成同志革命歴史〉だった。しかし、2年後卒業した後、私はまた同じ炭鉱に戻され、社会主義青年同盟炭鉱の青年委員長に任命されたが、他の帰国者ではない卒業生は皆工場の支配人や、党幹部に上っていった。この時私には、やはりどんなに努力しても運が良くても、帰国者には北朝鮮での昇進は限界がある事が分かった。

私はその2年後解任された。炭鉱の最高権力者である人物と喧嘩になって、卓上の電話機をその人に投げてしまった為だった。地方党にたいしての反抗は中央党にたいしての反抗に当たると判断される。弁解の余地もなく、革命化という理由で再び坑内の重労働が私を待っていた。

でも不幸中の幸いだった。慣例からすると、もっと酷い罰があったかも知れないが、仲の良かった〈三大革命小組〉が助けてくれたのだった。勿論、そこには前私の腕にはめていたセイコーの腕時計や、持っていた日本製のアイロンが大きく作用していたと思う。これらを賄賂として使わなければ、私の運命はどのようになっていただろうか?今考えて回想してみると背筋がぞっとする感じである。

私が長々句々自分の話ばかり述べた事になったのは私の思春期時代、青年時代、中年時代までの人生として一番大切な時期をこの炭鉱地帯で空しく過ごしてきた無念な気持でいっぱい残っているからである。